運動に関して猛烈に共感する記事がありました。
当ブログの意義そのものでもある「人が筋トレ(ジム)に合わせるのではなく、自分にあった筋トレ環境・人生を探る旅」、という印象を受けました。
特に「日常性」を獲得する事が運動継続の鍵、に共感しました。
日常性を獲得するってなんだ
記事では、「日常性」とは、要は自分の日常に組み込む事ができているか、という事。
そこで改めて考えてみると
・・・そもそも、日常って何だろう。
個人的には、「自分の価値観にマッチする形で作りあげた世界」だと思います。
イヤイヤ・・・別に、「日常」に価値観とか考えた事が無いんだけど、って感じがあるかもしれませんね。
そこだと思います。その無意識感。
運動習慣というか、何かを継続する時の鍵は、その無意識の先にあると思っています。
人は、自分の好きなモノや快適なモノを求めたり、何らかの痛みを避ける行動をとったり(こっちの方が多い)、無意識に自分の価値観にマッチした世界を作り上げていると思います。
厄介なのは、無意識であるという事。
運動習慣のもう一つの鍵である「目的や信念」が無い状態の無意識は厄介で、簡単に言うと、周りに影響されやすい。
例えば、運動をするためには、ジムに行かなければいけない、ジムと契約しなければいけない、月会費を払わなければいけない、最近流行りの○○、みんながそうだから同じようにしなければいけない。そういうモノだと思っていた。
これ全部、「自分がそうしたいから」ではなくて、「そうだから」という事だと思います。
言い換えると、そういう選択肢しかないと思い込んでいる(そういう社会環境しかない)、という事かと。
ジムは、ある程度年齢層や趣向等でターゲットをセグメントしているかもしれませんが、まず言えるのは、あなた個人の為に作ったサービスではありません。
当たり前の事でしょうがない事を言ってるようですが、運動習慣を身に着けるには、ここが非常に重要で、ここのケア無しに、運動習慣云々という話は不毛の議論(っというか、本質的に向き合っていない or 向き合うつもりはない)だと思います。
この盲目の社会環境(人の機微を拾わない)で運動習慣を身に着けるには、かなり難しい話だと思いますが、必ず解決策はあります。
解決策
まず、必要だと思うのは、無意識(常識)を疑う事からなんじゃないかと思います。
無意識に取っている行動が本当にあなたがやりたいと思っている事なのか、それとも周りの影響によるものなのか。
そうやって考えてみると、結構、自分の本当の価値観に気づくことがあります(セルフトーク)。
価値観に気づく事で、今どうありたいのか(もしくは、将来計画が好きな人は、将来こうなりたいとか)といったような目的や信念が見えてくるかもしれません。
因みに、そのプロセスを経る事で、別に運動が選択肢じゃなかったって事もあると思いますが、それで良いと思います。
仮に、自分の価値観に気づき、運動が必要であるとなった場合、そこで初めて、その運動を実現する為に必要なリソースはなんだろう、と考え始める感じかと思います。
もしかしたら、そのリソースは、ジムかもしれないし、家トレかもしれないし、オンラインかもしれないし、もしかしたら、現社会には存在しないから自分で創ったりするかもしれないし。
その辺の気づきを生む為に
セルフトーク/「妄想力」(記事で使っていた用語)が得意な方は、一人できるというか、もうすでに行動していると思います。
人は「物事を見たいように見る」特性があり、ここで重要になってくるのが、パートナー的な存在。
自論ですが、運動習慣を継続する為の究極的な手段は、ジムでもなく運動そのものでもなく、人との関係(コミュニケーション)であって、パーソナルトレーナーやトレーニングパートナーやパーソナルコーチといった第3者だと思っています。
さらに、ここで重要だと思うのは、そういった第3者が利用者にとって自然な存在であって欲しい、という事で。
トレーニングを教えてほしいと思ってる人もいるだろうし、教えてほしくないと思っている人もいるだろうし、何もしゃべって欲しくない人もいるだろうし、何が自然な存在なのかわからない人もいるだろうし、その人にとって自然にあるモノとして存在できるスキルが備わっている、というのが第3者として理想的な人物像だと思います。
そして、この第3者との関係が展開される「場所」は、ジムでも良いし、オンラインでも良いし、どこでも良くて(話しやすい環境であれば)、色んな環境がオープンでフリーに存在し、そういう部分で余計なコストが発生しない、というのが理想だと思っています。
まとめ
記事に触発されて久しぶりに自論を展開しました。
「日常性」を獲得するには、どれだけ自分の価値観を大切にできるか、という事。
そして、人が筋トレ(ジム)に合わせるのではなく、自分にあった筋トレ環境・人生を探る旅を一緒に歩めるパートナー的存在にこそ価値がある、と改めて思った記事でした。